T 法華経
 
◎人類永遠のテーマの答えが法華経に
 
 過去数千年の人類の歴史の中で、人々は、生きることについて『人生とは何ぞや?』、あるいは『自分自身とはいかなる存在であろうか?』、また『理想の世界は、どうしたら実現出来るのであろうか?』といった問題について、苦悩し、模索し、提言し、そして、それらは思想・哲学として、あるいは宗教として形成し、今日なお、人々は、永遠の宿命を背負ったような顔をしながら21世紀を迎えました。
 しかし、あらためて、よく世界を見渡し、その源流を探れば、インドにおける仏教、その中でも、法華経にこそ、その答えが用意されていたのです。永遠の時を超え、脈々と生き続ける法華経、私たち人間は、いかにこれを真剣に捕らえ、自己のものにしていけるのか、そこに私たち人類の将来がかかっていると言えるでしょう。
 
 法華経は已に日本人なら知らない人はいないくらい有名なお経の名でありますが、しかし、その意味や教えの内容などになると、知っている人は、まだまだ少ないと言えましょう。
 法華経は、仏教の開祖、釈尊が説かれた多くの経典の中で、最も真実最高の教えであることは今更言うまでもなく、間違いのないことで、法華経の偉大な力をエネルギーに喩えると、他の数多くの経典の力は、石油燃料とか、石炭燃料とか、水力発電など、いろいろありますが、法華経の偉大な力は、原子力、否、それ以上のエネルギーであるところの、太陽エネルギーに匹敵するようなもので、無限の力を発揮します。法華経を最も深く研鑽し、実践された日蓮聖人は、他の経典類の力と法華経の力を比較して、他の経典類は、夜空の星のような光であり、法華経は、太陽の光である。また、暗黒の中では夜空の星の光でも有れば、無いよりはましであるが、いったん太陽が出れば、無数の星の光は太陽の光に隠れてしまい、用を足さないものになってしまうとも言われています。法華経の偉大な力は、このようなものであると評価されているのであります。すなわち、他の経典類は、それぞれ力があって人々を救う力を持っていても、法華経の力にはとてもとても及ぶものでなく、法華経の偉大な力によって、はじめて深い悩みや、苦しみをも救うだけの力を持っていると言うことであります。今日、荒れ狂う世の中を救い護ることのできる教え(力)は、法華経であると言われています。
 たしかに法華経の内容を熟読していくと、人類(人間)の根本的な問題と、それを救うことのできる深義が説かれています。次に概略ですが、法華経の根本的に勝れた面を述べてみます。
 
 @法華経前半の教え……
  1)四十余年間の説法の意義を明かす
 
 善男子、我先に道場菩提樹下に端座すること六年にして、阿耨多羅三藐三菩提を成ずることを得たり。仏眼を以て一切の諸法を観ずるに、宣説すべからず。所以は云何、諸の衆生の性欲不同なることを知れり。性欲不同なれば種々の法を説きき。種々の法を説くこと方便力を以てす。四十余年には未だ真実を顕さず。是の故に衆生の得道差別して、疾く無上菩提を成ずることを得ず。(無量義経説法品第二)
 
 無量義経は、法華経に入る前座の教えで「開経」と言われています。特に説法品第二では、法華経以前の教えが、どういう目的で説かれていたのか、分かりやすく説かれていますが、それを端的に示したのが、この一節です。口語訳では………
 私(釈尊)は、道場である菩提樹の下で瞑想端座すること六年にして、最高の悟りを得ることができた。そして仏の悟りの眼で一切の物を観ると、どれ一つとして同じものはなく、そのような中で、人々に真実の教えを説くわけにいかなかった。なぜなら、人々は、みな性質や能力が異なっている。性質や能力が異なっているが故に、それぞれに合った教えを説いてきたのである。これがすなわち仏の方便力であり、そういうわけで四十余年間は、真実を明かさずにいたのである。それゆえ、人々もそこから得る悟りの程度も千差万別で、誰でもまっすぐに最高無上の悟りに達することが出来なかったのである、と説かれています。
 
 ここで改めて、釈尊の生い立ちを振り返って見ますと、 釈迦族の王子として生まれ、何不自由ない生活を送くり、結婚もされたが、人生の根源的な苦悩を強く感じるようになりました。すなわち、何故、人は老いなければならないのか、何故、病に遭わなければならないのか、何故、死が待っているのか、など、そのように考えると、今の王宮での楽しみは、一時的なものに過ぎない。このように深く考えて、遂に城も捨て、妻子も捨てて、求道の旅に出て、難行苦行を重ねて、種々の修行の末、最後に菩提樹の下で、瞑想に入られたのでありますが、そのことがここでの経文の一節となっているのです。そして遂に一切の真理を悟られた釈尊は、(その時の年齢は三十歳と、三十五歳の二説あり)その悟られた真理を伝える為に伝道に向かわれたのであります。そして入滅される八十歳まで、約五十年間、種々の教えを説き伝えられたのであります。その教えの中には、阿含経、華厳経、阿弥陀経、般若経、などをはじめとして俗に八万四千といわれる膨大な教えが含まれているのです。そして、説法をはじめてから四十余年が経ってから、説かれた教えが法華経なのであります。参考資料「釈尊一代記」

 そこで、釈尊が悟りを開かれてから四十余年間、方便の教えを説いてこられた内容とは、いったいどういうものであったのか。あらためて振り返ってみますと。………
 今あらためて、人生の苦しみ、悩みを考えた時、そこから逃れる術を釈尊は、どのように説いてこられたのか。私たちの「心の在り方」を中心に考えてみたいと思います。
 まず、苦しみや悩みの原因を考えた時、「四諦の法門」で示すように、人生には、四苦八苦と言って、生・老・病・死や愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦の苦しみの結果があり、その苦の原因として、人々の心には、もろもろの煩悩(貪瞋痴・慢心・疑惑・邪見・辺見、等)があり、さらに、それらの煩悩の根本原因を考えると、それは「迷い」であり「顛倒心」であり「執着心」であるということです。
 その解決策として釈尊は、仏教の根本哲理として「四法印」をお示しになられていて、そのうちの「諸行無常」「諸法無我」ということを考えてみれば、お分かりになると思いますが、世の中のすべてのものは、変化して止まない。それ故、いかなる存在も不変で本質を有するものは無いということです。しかしながら、生きとし生けるものは、その存在に固執し、愛しみ、その継続を願って、そこから心が離れない、心が顛倒して、そこからもろもろの煩悩や迷いを生じ、悩み苦しむのであると。
 釈尊は、そのような状態を直視し、その苦から離れしめるために、『すべての執着心や煩悩を捨てよ』と、人々に「四諦の法門」「十二因縁」の法を説いて、聲聞・縁覚の位(阿羅漢の位)を得るようにさせたのであります。
 これがいわゆる「小乗の滅」で、小乗の滅とは、煩悩や執着心を離れただけの状態。それは、世の中のすべてのものを捨てて、出家した境地と言えます。
 
 以上のような経過が、法華経に入るまでの人々の修行の結果であり、その事が無量義経で説明されているのです。さて、それがはたして修行のすべてでしょうか。仏教のすべてでしょうか。
 
 そこでいよいよ、法華経に入りますが、そこでは、どのような「心の向上」が必要とされるのでしょうか。
 先に述べたように、真の滅は、まだ他にあり、それが方便品で説かれているところの「開示悟入」であり、「大乗の滅」であります。
 小乗の滅によって、自己の凡我小我を捨てさせ、心が澄みわたった状態の後、さらなる心の向上を目指して前進しなければならない。これらが仏様の真意でありました。
 
  2)仏様(釈尊)の出世の本懐とは
 
 諸仏世尊は、唯一大事の因縁を以ての故に世に出現したもう。舎利弗、云何なるをか、諸仏世尊は唯一大事の因縁を以ての故に、世に出現したもうと名くる。諸仏世尊は、衆生をして仏知見を開かしめ清浄なることを得せしめんと欲するが故に、世に出現したもう……舎利弗、是れを諸仏は唯一大事の因縁を以ての故に、世に出現したもうとなづく(方便品第二)
 
 さて、方便品で、遂に仏様は、この世に仏が出現された意義(一大事因縁)を明らかにされました。それは、人々に仏と同じ智慧を得せしめるための故であったという。これを仏語で「開示悟入」(衆生に対して仏知見を開き、示し、悟らしめ、入らしめる為)と言います。すなわち、仏様が、この世に出現された最大の理由は、一切の人々に仏と同じ智慧を得せしめる為であったことが力説されているのであります。これを一切の人々の側から見れば、我々は、仏の智慧を得る為にこの世に出て来たことになります。仏に成る為に、この世に生まれて来て、あらゆる経験や修行をしていくことが、人生の意義であることが理解できるのであります。
 ここで一言で「仏に成る」と言っても、大変大きな意味を含んでいます。「仏に成る」と、「成仏」とは、本来は同じ意味ですが、時と所によって、その使い方に、いろいろ違いがあるようです。俗世間では、仏に成った、あるいは、成仏したという時は、単に「死んだ」という意味で使われるようです。死イコール仏ということでしょう。しかし、本来は、辞書にもあるように、仏とは、「悟りを開いた者」、あるいは、「真理を得て、衆生を教化する者」とあり、別に死とは関係ないのです。また、「悟り」とは、迷いを無くすことであります。ですから、先に申し上げた、我々は仏に成る為に、この世に生まれて来たということは、あらゆる経験や修行をして、真理を得て、一切の迷いを無くし、ひたすら一切の衆生をお救いして共に仏道に導き入れることのできるようになることが、仏に成るということであります。このことについては、おいおい触れていきたいと思っております。さて、最近では、人は、生まれ変わり死に変わりして、生きて行く意味は、魂の向上の為であると言った精神書物や思想書が、大変多く見受けられるようになってきましたが、まったくその通りでありましょう。ただし、そこには、魂の向上と言っているだけで、その行く付く先は分からないようです。仏教では、仏様が天地一切を悟られていますので、そのすべてが解明されていて、後の項で述べる「十界」で、我々の究極的目的は、仏に成る(成仏)為の生まれ変わり死に変わりであるのです。そのように悟った時に、人生の意義や目的がはっきりすることでしょう。
 
さらに重ねて言われるには、……
 
 諸仏、方便力を以て、一仏乗に於て分別して三と説きたもう。(方便品第二)
 
 上記の意味は、仏の教えというものは、本来は一つであるが、人々の機根に応じて、聲聞乗・縁覚乗・菩薩乗と三つの教えに分けて説いているのである、と。
 法華経の前半では、仏様の本来の目的は、仏と同じ悟りを得せしめるためであったことが重ねて強調されていて、それ以前の説法は、そこへ至る一過程であったことが理解できるのであります。
 
 ◇法華経前半(方便品)のまとめ
 
  ○教理上では………二乗作仏(聲聞・縁覚の者も仏に成れる)
                 開示悟入(仏知見を得せしめる為)
  ○学ぶべきこと…… 人生の意義を(目的)を知ること。
  ○実践面では………すべて仏に成るための修行。
 
 A法華経後半の教え……
  1)地涌の菩薩の出現
 
 さて、いよいよ核心の部分に入ってきますが、法華経の後半では、……
 
 娑婆世界の三千大千の国土、地皆震裂して、其の中より無量千万億の菩薩摩訶薩あって同時に涌出せり。是の諸の菩薩は身皆金色にして、三十二相・無量の光明あり。……是の菩薩衆の中に四導師あり。一を上行と名け、二を無辺行と名け、三を浄行と名け、四を安立行と名く。(従地涌出品第十五)
 
 これから法華経の中心部分である本門の教えに入りますが、経文では、突如として、娑婆世界の大地が震動し、無数の大地の裂け目から無量の菩薩群が出現される光景が描かれています。これら菩薩群は地から涌き出たことから、「地涌の菩薩」と呼ばれ、仏の身とまったく同じように、金色に輝き、素晴らしい相を具えているという。これら地涌の菩薩群の中に四導師がおられ、それらの名前は上行・無辺行・浄行・安立行と言う。
 さて、これら地涌の菩薩群は、本門の核心に入る序分としての役目があると同時に、末法の世に仏様からの使命を受けて、法華経を持ち修行する者たちであると言われています。
 
 すなわち、法華経前半(迹門)では、釈尊の真意は、私たち仏弟子は、自己の小さな我見・我欲に囚われているので、それらから離れるためには、仮の教えとして聲聞・縁覚の悟りを得るようにして下さったのでありますが、仏道の本来の目的は、仏に成るために菩薩の道を歩むことであるのがその結論でありました。
 
 しかし、法華経後半(本門)の従地涌出品では、同じ菩薩の話であっても従来とまったく異なり、その身は仏のように金色に輝く大菩薩であり、過去久遠より釈尊の教化指導を戴いている者たちであると言う。これは一体、何を意味しているのでしょうか。想うに、仏と同じように金色に輝く菩薩群とは、仏と同等の者たちである、仏と差別が無いの者たちである、ともとれます。続いて経文では……
 
  2)未曾有の法を説く
 
 昔より未だ聞かざる所の法、今皆當に聞くことを得べし……得る所の第一の法は、甚深にして分別しがたし、是の如きを今當に説くべし、汝達一心に聴け。(従地涌出品第十五)
 
 未だかつて聞いたことがない第一の法をいよいよ説くのである。信じ難く理解し難い妙不可思議の法とは何であるのか。それがこれから説くところの如来壽量品第十六の教えである。汝達一同、一心になって聞くが良い。
 
 汝達諦かに聴け、如来の秘密神通の力を。一切世間の天・人及び阿修羅は、皆今の釈迦牟尼仏、釈氏の宮を出でて伽耶城を去ること遠からず、道場に坐して阿耨多羅三藐三菩提を得たりと謂えり。然るに善男子、我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由他劫なり。(如来壽量品第十六)
 
 ここでは、驚くべきお言葉が述べられています。すなわち、釈尊は、四十余年前、城を抜け出て修行を重ね、菩提樹の下で遂に阿耨多羅三藐三菩提(悟り・成仏)を得たと思われていますが、実は、すでに無量無辺百千万億那由他劫(過去久遠)の昔にすでに成仏されていたことが明からかにされたことであります。これを仏語で久遠本仏、あるいは久遠実成大恩教主釈迦牟尼仏といい、久遠本仏の命は永遠に滅せず、その慈悲も永遠に止まないことが説かれています。このことは、仏教八万四千と言われるどの経典を紐解いてみても説かれていないことであり、法華経の如来壽量品に至ってはじめて明らかにされたことで、まったく驚嘆すべき内容であり、この真実がもたらす大きな意味を深く感じるべきでしょう。
 
 如来壽量品の最後の一節には、久遠のご本仏様の御心・本願が次のように集約されています。
 
 毎に自ら是の念を作す。何を以てか衆生をして、無上道に入り、速かに仏身を成就することを得せしめんと。
 
 私(久遠の釈尊)は、常にこのように思っている。すなわち、どうしたら一切の人々が仏の正しい道に入り、速やかに私と同じ仏の身を具えることができるのであろうか、と。
 
 この経文は、久遠のご本仏様のご一念といったものが、ひしひしと我々一人一人の心に迫ってくるものがあり、久遠の釈尊が主として、師として、さらには親として、我々一切衆生によせるお気持ちが、有り難く感激をもって受け取らせていただけます。
 そして、先の従地涌出品で説かれてところの金色に輝く地涌の菩薩群は、我等法華経を受持する者を言うのでありますが、久遠本仏と地涌の菩薩群の関係は、ある時は、親子であり、ある時は、師弟であり、またある時は、主従でもあると言うことは、本覚の上で、仏と我等との関係は一如であり、我等は永遠の時の流れ、永遠の命の流れにおいて、久遠本仏と一体に成った関係において、久遠本仏のおはたらきの一部を実践させていただいていることに他ならないのであります。これが我等の本体(魂)とも言うべきでありましょう。
 
 ◇法華経後半(如来壽量品)のまとめ
 
  ○教理上では………久遠実成(久遠本仏としての永遠の命)。
  ○学ぶべきこと……我々の命(魂)を知ること。
  ○実践面では………久遠本仏と自己とが一体に成る為の修行。
 
 ◎結論
 
 以上、方便品・如来壽量品の二品を中心に述べましたが、最初に触れたように、世界の思想・哲学・宗教が求めていた究極的な問題、すなわち「人生とは?」「人間とは?」と言った根本問題について、その答えがこの法華経に用意されていたのであります。すなわち、方便品では、哲学的に「人生の目的」が、壽量品では、宗教的に「久遠の本体と自己(魂)との関係」が、それぞれ完璧な形となって凝縮されていたのであります。
 改めて、哲学・宗教、さらには科学が求めていた究極的な問題について考えてみましょう。それは、宇宙に存在する、それらの「存在」と、「はたらき」の二つでありましょう。それ以外の問題については、すべて付属的な部分となりましょう。まず、最初に何故、そこにそれらが存在するのか、その存在理由・意義であります。その次に、その存在するもののはたらきです。どのようなはたらき・価値があるのかといったことであります。哲学を語る時、また、科学的に追求していく時、このことが根本的な問題となりましょう。かの有名な言葉に「我思う、故に我あり」(デカルト)、また、「人間は考える葦である」(パスカル)などがありますが、その存在意義こそが第一義でありましょう。次にそのはたらきであります。そのはたらきも存在理由ともなりましょう。この宇宙に存在する、森羅万象ことごとくのものにこの二つについて問われるのであります。宇宙そのものも然りであります。
 今、仏教、その中でも最高の教えと言われている法華経にこそ、その究極的な問題の答えが用意されていたのであります。すなわち、我々自身が最も関心のある、また最も必要事である、我々自身の存在は、どのようなものであるのか、そしてそのはたらきはどのようなものであるのかが、法華経の方便品と如来壽量品に、それぞれ明示されていたのであります。先に述べたように方便品では、我々のはたらきについて、我々は何の為にこの世に生を受けたのか、何の意味も無く生まれたのでもなく、何の目的も無く生きているのでもないわけです。そして、最後に如来壽量品では、その存在について、我々とは、一体何者であろうか、その存在価値であります。その根本的な問題の答えが先のまとめに述べられているとおりであります。
 一般世間では、人は、すべて幸せを追求して生きていると言われていますが、これに異論を唱える人はいないでしょう。人種・宗教などを超えて、その通りでありましょう。そこで、であるから、自分の幸せを追求するのであって、他人の幸せを思ったり、自分を犠牲までして他人を救うことなどは「偽善」である、これは本音だと言う人もいるでしょう。かと思えば、他人の不幸を顧みず、自分だけの幸せを追求するのは、あまりにも自己中心的で、いかにも倫理道徳的に問題があるという人もあるでしょう。このどちらも道理のある言葉でありましょう。すなわち、これらは、「個と全体の関係」と言えます。この個と全体について、どちらに重点に置いたら良いのか、それらについても仏教では明快に答えられているのです。
 また、社会機構において、世界には、大別して共産主義と資本主義があります。共産主義は、全体主義と言っても良いでしょう。また、資本主義は、個人主義と言っても良いでしょう。共産主義は、全体の幸せを追求するあまり、個人の幸せは制限されていたように思えます。また、資本主義は、個人の自由、幸せを追求するあまり、弱肉強食の世の中になりがちです。現在、ユートピアと思われていた共産主義は、ソ連の崩壊と共に影を潜め、資本主義が横行していますが、いまその資本主義も崩壊に向かいつつあると、ある学者によって予言されています。共産主義が崩壊し、今又、資本主義が崩壊するとなれば、次に来る世の中は、どのような世界が出現されるのでしょうか。
 これらも関心があるところですが、法華経には、個人の幸せと、世界人類の平和といった両面(個と全体の関係)についても、何のわだかまりもなく、適合性・融合性を有し、究極的な統一性と成っているのです。これこそが全人類が渇仰して止まぬところの永遠普遍の真理であります。いま改めて、「個と全体の関係」を考えると、先に「仏に成る(成仏)」の所でも述べたように仏に成るとは、個人の幸せの追求であると同時に、全体の幸せの追求でもあるのです。同時進行であると思われます。
 釈尊は、人生の苦を見て、その苦から逃れるにはどうしたらよいのか、その為に城を捨て、妻子を捨てて出家したのでありますが、これは、自己の真の幸せの追求と言えましょう。また、それは、人間としての苦の根源からの脱出・解放でありました。そして、難行苦行の修行の結果、遂に仏(覚者)と成られました。覚者、すなわち、一切の疑問・迷い・不安の無い状態と成られたのであります。それでは、一切の疑問・迷い・不安が無いとは、どういう状態でありましょうか。この答えは大変難しいことです。なぜなら、仏に成った者でなければ、その状態は説明できないわけですから。外から眺めて推論するか、あるいは、経典で説かれていることを信じるしかないでありましょう。釈尊も方便品で、「ただ仏と仏がいましよく諸法の実相を究盡したまえり」と説かれていて、仏に成ったものでなければ、分からないことであると申されているのです。
 そこでいくつかの経典を紐解き、仏とはどのような状態でおられるのかを調べてみて、わずかな言葉で申し述べるならば、仏とは、宇宙の一切の存在理由を悟られて、それら一切のものがどこから来て、どのようなことをして、どのような所へ向かっているのかがつぶさに分かり、また、それらを救い導く術も知っておられて、大慈大悲の念をもって、しかも、その念が遍くこの宇宙に遍満している状態と言えましょう。
 ですから、仏に成るということは、単に自分の幸せのみの成就ということのみならず、一切衆生に対する救いの力も成就されているということなのです。個と全体との関係が共に円満具足されている状態なのであります。これが「仏の世界」と申せましょう。
 仏説無量寿経には、阿弥陀仏が未だ仏に成る前の菩薩(法蔵菩薩)の段階であった時、誓願を立てます。法蔵菩薩の四十八願の最初には、「たといわれ仏を得たらんに、国に地獄・餓鬼・畜生あらば、正覚を取らじ」とあります。自分が仏に成るということは、多くの者達も、共に救われている世界でもあるのです。仏教の教えと、その世界は、常寂光土の世界なのです。このように仏教は、「個と全体」の関係を考えた時、個だけでもなく、全体だけでもなく、共に円満具足した世界を顕現させる教えと申せましょう。
 以上、この苦悩多い末法の世に、その苦を解決する抜本的な原理・教理が、法華経の、しかも方便品と如来壽量品に顕説されているのでありますが、この原理・教理を如何にして自分たちの生活に活かしていけるかどうかは、我々の今後の修行・精進に掛かっているといえます。どのような勝れた法則であろうが、どのような勝れた方法であろうが、それらを実行するのは、我々一人一人であり、実行した者だけが、その真理を体感することができるでしょう。
 法華経は、正式には、妙法蓮華経と言う。「蓮華」とは、法華経の教えを実行する我々に例えられています。どんな濁悪な世の中であっても、それらに染まることなく、清く美しい花を咲かせるのが蓮華であり、法華経を実践するということはそういうことでありましょう。
改めて「如来壽量品の奥義」として別に記載しましたので、ご参照下さい。
 

 
 
U 前世療法
 
 @トラウマ
 
 トラウマ……最近、テレビ・新聞・雑誌などで、悩み・苦しみを扱った記事の中で、よく耳にする言葉として、この言葉が出て来ますが、トラウマとは、辞書で、精神的障害・精神的外傷、となっています。いわゆる「心の傷」のことであります。これは、過去の辛いことや悲しいことなどがトラウマとなって人間の潜在意識の中に内在されていることであり、それが、幾年、幾十年経ってから、その意識が働いて、現在、起こり来るある出来事に対して、怖がったり、反発したり、悲しんだり、怒ったり、といろいろな反応を示すことです。
 それは、本人が表面的に意識はしていないが、(場合によってはある程度、意識している場合もある)潜在的に反応を示すことであり、そこで、この潜在意識の中にある過去の思い=トラウマを取り除くことが必要となり、それには潜在意識を顕在化させることによって、無意識に怖がったり、怒ったりなどの反応を示さなくなると言われています。
 例えば、幼少の頃、父親に相当な虐待を受け、それがトラウマとなって、大人になった時、父親と同じような男性に遭うと、意味もなく異常におびえたり反発したりする事がありますが、この場合など、幼少の頃の心の傷が残っていて、同じような顔・形の人を見ると思わず、又いじめられると思う潜在意識が働いて、反射的に拒否反応などを示すのであります。
 このような心の傷を受けた者を治す場合は、心の治療が必要であり、俗に「癒し」と言われていますが、癒しにもいろいろあるようで、その者に対して、なぐさめや励ましや、温かい気持ちをかけたり、共感したり、それも長期間の治療的施しが必要となる場合もあるのです。
 
 A退行催眠(前世療法)
 
 さて、先の潜在意識を顕在化させることによって、無意識に怖がったり、怒ったりなどの反応を示さなくなると言われていますが、実際には、どのような方法があるでしょうか。まず最初に、どのようなトラウマが潜在意識の中に内在されているかを調べなくてはなりません。
 その方法の一つとして、最近注目を浴びているのが退行催眠であり、これは、アメリカで医学的治療方法の一つとして行われていますが、本人を催眠状態にして、本人の過去に遡り、本人が気が付いていない過去の辛い出来事を再現することにあります。これを「追体験」といい、それによって、潜在意識が顕在化する事になり、潜在意識は消滅すると言われています。
 この結果、現在、起り来るある出来事に対しても、無意識に驚いたり、悲しんだりしなくなります。退行催眠は、現世のことばかりでなく、“過去世”まで遡ることができると言われていて、これについては、海外で出版され翻訳されている“退行催眠”や“前世療法”などの名でいろいろと出版されていますが、日本では「生きがいの創造」飯田史彦著(PHP研究所)で詳しく語られているので、興味のある方は参照してください。
 
 ちなみに一例をかいつまんで紹介しますと、……
 ある女性が水を非常に怖がっていて、通常、何故、そんなに水を怖がるのだろうと、誰もが不思議に思うところですが、本人はその原因を特定できない。そこで、退行催眠ができる精神科医に診ていただき、本人を催眠状態にして、幼少の頃の記憶へと遡った。すると、小さい時、プールで溺れそうになり、とても怖い思いをしたことが潜在意識の中にトラウマとして残っていたことが判明(顕在化)した。催眠状態から覚めると、水に対する怖い思いが少し無くなったように思えた。しかし、それでもまだ残っていた。そこで、再度、催眠状態にして、幼少の頃に遡ったが、原因が特定できず、医者は思い悩んだ。原因は必ずどこかにあるはずだ、と思い、再度、原因探しの催眠を施したところ、なんと、本人は、催眠状態の中で、前世(過去世)の出来事を語り始めたのであった。それは遙か遠い昔に大河が氾濫し、自分は、それによって溺れ死んだことを語った。その時の怖い思いが、ずっとトラウマとなって残り、生まれ変わり死に変りしても続いて、今日、水を見ると反射的に怖い思いがすることが分かったのです。すなわち、本人には気づかない恐怖の原因が、遠い前世において、経験していたことを退行催眠療法(前世療法)によって、蘇らせることができたのであります。これは潜在意識が顕在化したことになります。
 このことを論理的に説明するならば、体にできる吹き出物のようなもので、体の中にある間は、そこにしこりがあって痛かったり気分もすっきりしない感じがしますが、吹き出物が段々盛り上がって表面に出てきて、最後は、膿となって外に出てしまうと心身ともにすっきりすると同じ原理であります。心の中もちょうどそのようなもので、奥の方(潜在意識・無意識の領域)にマイナスのもの(悪想念など)が内在していると、いやな気分ですが、それが膿のように外へ放出(顕在化)されることによって、心の中の悪い部分が無くなり、心身ともに爽快になるのであります。心も体もメカニズムは、同じ原理・同じ法則で動いていると言えます。
 アメリカではこのような臨床医学による前世療法によって、あらゆる病状や苦痛が取り除かれ、実践例は数千件にもなるといわれています。この臨床体験により感じることは、いかに多くの人々の苦しみや悩みの元が、潜在意識や無意識の領域に存在していて、それらが、今生きている我々の生活に顕れて来て、作用しているかが理解できるようになるのであります。今生きていて感じる苦しみや悩みを解決しようとした時、潜在意識や無意識の領域をほとんど無視して処理しようとしても無駄であることが段々と了解するようになりつつあります。
 以上、現実的に前世療法を施すことによって、患者が良くなるということは、退行催眠の有効性と、輪廻転生の意義が、ある程度、実証されつつあります。
 
 B前世療法の意義
 
 さて、主にアメリカで臨床的に行われている精神医学療法としての「前世療法」は、催眠療法の中で、偶然に発見されたことによるもので、前もって理論体系に基づくものではなかったのであります。もっとも、それ以前にヨーロッパではフロイトユングによって潜在意識や無意識のあることは研究されつつありましたが、はっきりした「前世の考え方」は無かったようであります。それが偶々、催眠療法を行う中で発見されたわけで、この発見は、非常に大きな意義があります。前世、過去世の話は、仏教においては至る処で見受けられ、当然のように語られていますが、それは宗教的な話であって非科学的なものであるとかたづけられがちでした。ところが、精神医学療法の一つである催眠療法によって、偶然にも前世・過去世があることが発見されたことは、まさしく高度に発達した科学文明時代において、しかも西洋の医学見地からの発見は、驚異的と言っても過言ではないでしょう。
 これによって、人は、過去・現在・未来と、三世にわたって、輪廻転生していくものであり、また、あの世の存在、霊の存在が宗教的以外の分野において、確証されつつあることは、これからの人類のあり方、生き方について、さらには、文化、科学、医学、教育等々に大きな指針を与えていくに違いありません。


 
 
V 阿頼耶識(アラヤシキ)〈第八識〉
 
 @唯識(ゆいしき)の教え
 
 人間とは不思議な生き物であります。他の生命も然りです。人間は、どれだけ自分を自覚しながら生きているでしょうか。自分の本心・本体は何でありましょう。また自分と他人との関係とは、これらを究極的に極めた人がいます。それが仏陀(釈尊)であります。仏教の源流の中に「唯識」という教理があり、この「唯識」を持って、現代の病理を解明していきたいと思います。
 
 釈尊は、紀元前数百年前に、宇宙の一切の法則をお悟りになり、人間が解脱する道をお教えになられました。それが仏教であり、仏教では、この世界に存在するあらゆるもの……森羅万象の構成から、個々の人の心のあり様、さらには輪廻転生する永遠の命に至るまで、透徹された眼で詳しく語られていますが、ここでは人の精神・心について、その概要を説明します。
 まず、最初に我々人間の心の中を解明するところから始まりますが、精神医学では、内奥的な心の部分を「潜在意識」あるいは「無意識」と言いますが、仏教では、「唯識論」で詳しく分類していて、(図一図二参照)第七識・第八識と言われる部分であります。この潜在意識(無意識)は、通常、自分では、まったく意識できない領域のことで、このような領域があることを深く理解するが大切です。それでは、仏教で教える「唯識論」について説明いたします。
 最初に日常の意識である「第六識」(意識・思考)ですが、それは、眼・耳・鼻・舌・身の五感によって反応する最も表面的な部分であり、その奥に「第七識」【末那識・マナシキ】(自我執着心)があり、さらにその奥に「第八識」【阿頼耶識・アラヤシキ】(根本心……一切法を含蔵する種子識)があると言われています。(宗派によっては)さらに究極的な心の領域として「第九識」【阿摩羅識・アマラシキ】(生命の根源……常住不変の真理であるゆえに「心王真如の都」という)があると言われています。
 
 我々凡人には、第七識、第八識などを認識することができませんが、よく経験することは、自分が考えたり行動したりするのを、別の所から別の自分がいて、それを見ているような感覚を感じる時があると思います。自己が自己を制御すると言ったことで、このように考えると、日常、考えたり行動したりする意識の奥に、もっと根源的な自己が存在することも、少しは理解できると思います。それが第七識の自己中心性であり、第八識の貯蔵する心であります。通常、人間は、第一識から第六識で、見たり聞いたり触ったりして、それに反応して、いろいろ考えたり行動するが、その基となっているのが第七識、第八識の部分であり、ここには、過去のあらゆる経験(データ)が蓄積されていて、それに基づき判断行動します。(能動的方向)。また逆に、第七識、第八識は、第一識から第六識による集積の結果でもあり、(受動的方向)、それぞれが相互関係にあると言えます。(図三参照)
 
 笑い話に、「オイオイ、ムカデ君!君は足を百本持っているそうだが、どの足から歩くのかね」と言われた途端、ムカデは、そのまま前に進む事が出来なかった。この話など、普段、ムカデは、無意識の状態で、百本の足を自然と使い分けて歩いていますが、いざ意識して、どのように歩いているか考えた時、足が前に進まなくなってしまったのであります。人間も、日常生活において、朝起きると自然とトイレに向かい、顔を洗い、歯をみがくなど、習慣的な動作は、無意識のような状態で行っていることが多いと言えます。これらは、過去の習慣動作などが潜在意識の中に納められていて、自然とそのような動作や態度を示すわけです。
 そしていつか肉体が滅した時、外の環境に接している第一識から第五識も消滅しますが、第七識(第六識)から第八識以上のものは、魂の中に包含されて、永遠不滅に「輪廻転生」しながら、次の世に引き継がれていきます。第七識・第八識以上は、通常、眼には見えない次元の異なる波形のようなもので極小の世界と言えます。これについては、仏教では、のところで詳しく説明されています。
 さて、唯識学は、仏教の源流の中で、修行僧などが仏陀の悟りを求め、真剣に研鑽修行する過程において、構築されていったようですが、現代においては、この唯識学をもって実践修行をすることは、余りにも不可能な状況と言えるのではないでしょうか。昔の修行僧は、現代のような物質文明の中であらゆる価値観が交錯した雑音などが無く、大自然の中で、ひたすら瞑想をしたり、思索に耽ったして、修行する環境があったと思うのですが、それから已に二千数百年が経過し、実践力も乏しくなり、現在では、唯識学は、単なる理論としてしか存在せず、それらを実証することは、ほぼ不可能に近い状況になり、絵に描いた餅となりつつあったように思います。しかし、不思議にもこの東洋の唯識学は、西洋の精神医学療法により証明されつつあり、それが「前世療法」でありました。
 
 ◎参考資料「唯識の意義」
 今日、世の中は、自由主義、個人主義が主流となっているようですが、そのような時代であるからこそ、この唯識思想が大変役にたつのではないかと思います。ここに唯識の意義が格調高く語られていますので、ぜひ、ご参照下さい。
→ 唯識思想の意義

 
W 退行催眠に代わるもの
 
 @唯識学と前世療法
 
 さて、退行催眠療法によって、いろいろの悩み、苦しみなどが解消したことにより、人は、輪廻転生し、過去の記憶がそのまま、次の世に引き継がれていく事実を認めざるを得ないようになったのですが、なぜ、そのようになるのか、その理論は不明であったわけです。西洋医学、あるいは、西洋哲学では、眼に見えない記憶の引き継ぎの理論などは説明しようがないのが今日までの姿でした。
 しかし、ふと振り返って、仏教の教義の中で唯識学を見聞した時、そこにはっきりと過去の記憶の引き継ぎの理論が提示されていたのであります。現代において唯識学は、ほぼまぼろしの学問?となりつつあった中で、改めて脚光を浴びつつあることは何とも不思議な出来事と言えましょう。
 人の記憶は第八識の阿頼耶識(アラヤシキ)に貯蔵されていて、次の世に引き継がれていく理論が、臨床医学・前世療法によって実証され、また逆に、前世療法の理論が唯識学の中で説明されている。まさしく仏教の教論と臨床医学・前世療法との融合と言えるでしょう。
 さて、アメリカでは前世療法によって、過去世のトラウマを解消するのでありますが、これと似たようなやり方は他にもあり、それは仏教で教えるところの「因縁の解明」によって解決できるのであります。それでは、順次、述べていきたいと思います。
 
 A潜在意識(無意識)の中味
 
 先に退行催眠療法によって、過去世(前世)のトラウマが解消できることを述べましたが、その理論は仏教で教える唯識学の阿頼耶識(アラヤシキ)〈第八識〉で説明することができました。しかしながら、小生の経験からすると果たして人生の難問・苦しみなどが前世療法(退行催眠)によってすべて解決できるかどうかとなりますと疑問が残るのであります。ここで改めて仏教で教える阿頼耶識(潜在意識)を見聞しますと、潜在意識の領域はとてもとても広く深い領域であります。なぜならば、人が輪廻転生することは、一回だけでなく数十回、数百回、あるいは、もっとあるかも知れません。これを仏教では、「六道輪廻」と言いますが、書名「生きがいの創造」飯田史彦著の中でも紹介されているように、これらは多くの臨床体験から言えることで事実であると思われますが、幾世にもわたっての数多くの過去世の集積した記憶の容量は、どれくらいになるでしょうか。この記憶の中には、無数の善業・悪業などが集積されているのです。「業」の項を参照下さればお解りになると思いますが、悪業は、身・口・意の三業と言って、無数の悪行、悪口、悪想念などがからみ合って、集積されているのであって、悪想念の中には、貪・瞋・痴(むさぼり・いかり・ぐち)や、邪見、偏見、嫉妬、恨み、などがあります。それらが幾つもの過去世が(あたかも切りだった崖に何層にもなる化石が堆積されているように)潜在意識の中に納められているのです。
 仏教の「唯識」は、人の心の中に渦巻いている無数の悪業の結果、濁ってしまった心をいかにしたら清浄無垢なものにしていけるか、その為の修行でもありました。そこであらためて、仏教全般で教えるところは、「十界」という教えがあります。
 
 B十界
 
 仏教では、森羅万象、この世界に存在する生命の境界を十に別けて説明しています。十の境界(十界)とは、下の方から地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天界・聲聞界・縁覚界・菩薩界・仏界と、十の境界があり、図四を参照してください。この眼に見える世界、見えない世界を含めて、生命の境界は、およそ十成層に別れていて、我々は今、ちょうど中間の人間界に生きていると言えます。今、地球で眼に見える範囲では、人間界と畜生界が存在していますね。畜生界とは、人間以外の生物と言えます。眼に見えない所、上の方には、天界以上の階層があり、下の方には地獄界へと続いています。しかし、人間界においても、始終、争いを好むような生き方をしたり、愚痴ばかりをこぼして生活をしている人は、修羅界・畜生界と同じような生き方をしていると言えます。そうかと思えば、仏の教えを聞いて、因果の道理を悟ったり、さらに人々の救済に力を注いでいる人は、聲聞界や菩薩界にいるのと同じ生き方をしていると言えます。ですから、仏教の十界は、外界のことだけでなく、各々の心の中にも存在すると教えているのです。ある時は、善いことがあると非常に喜んで、その時の状態は、天にも昇る心持ちとか、有頂天などと言いますね。ちょうど天上界にいるような心持ちのことです。また、ある時は、怒りの心で一杯になるとすべてのものが敵に見えたり、破壊したくなったりします。これが地獄界の心です。また、ある時は、困っている人を見て、憐れみの心を持ち、何とか助けてあげたいと思って手を差し伸べます。この時の状態は、菩薩や仏の心と同じです。このように、人は、その時々に応じて、仏の心になったり、鬼の心にもなったりします。
 すなわち、人の心の中にも、下は地獄の心から、上は、仏の心までもあって十界のすべてが具わっていて、行ったり来たりしているのです。そこで、日常生活においては、十界中でなるべく、上の方にいるような心持ちでいられることが大切なのです。そこで、自然に考えますと、物質的にも精神的にも上の方には、光があって、明るく、軽い感じがするし、下の方は、暗くて、重い感じがしますね。善悪についても善いことをすると天上界へ行き、悪いことをすると下の地獄界へと落ちて行くような感じがします。それ故、各々の心の中の精神領域においても重い罪、悪い業の結果の意識(記憶)は、下の方へ沈んで行くことも理解できることでしょう。唯識学の阿頼耶識においても、重い罪・悪い業などは、その意識(記憶)とともに、一層下の方へと納めれていると言えます。人が、向上心を持つとは、上の方へ行くということであり、その反対に堕落とは、落ちることで下の方へ行くということになります。このように天地上下の法則は内外において普遍的と言えます。
 
 C守護霊の存在
 
 先のところで、潜在意識は、過去の記憶が幾成層にも積み重ねられているようなものであると説明しましたが、その中には善業、悪業の記憶も留められいて、業も重ければ重いほど、奥(下)の方へ内在されていることが了解できると思います。
 そこで、退行催眠療法をもって過去世の出来事を探る場合、容易に取り出せる記憶と、なかなか難しい記憶と、その罪の重さ、大きさによって、千差万別と言えるのです。そこで取り出すにはそれだけのパワー(力)が必要となるのです。精神医学による退行催眠療法には、医師の力が必要であり、医師の力量にも左右されるでしょう。また、併せて本人の力も必要です。医師と本人の力が合わさって、退行催眠療法も進むことでしょう。しかし、退行催眠療法もより深い業を探るとなると、それだけの力が必要となり、それなりに精神領域においては、霊(魂)の力が必要となると思います。こうなりますと、宗教の領域になってくる話ですが、もともと心の問題、霊(魂)の問題は、物質世界を超えた精神世界に属するもので、その世界を認めてこそ、より普遍的な世界を極めて行くことになります。
 現に、精神医学では臨床体験から、先述のように生命・記憶の引き継ぎを認めざるを得ないところまで来ているわけで、患者本人の過去世を前世療法で治療する場合、広大な精神領域を探索していくうえで、それなりのパワーが必要となり、それが守護霊の力と言えます。守護霊の存在については、また、あの世の存在については、先の書名「生きがいの創造」飯田史彦著にも載っていますのでご参照していただきたいと思いますが、そこで考えなればならないことは、霊界に存在する守護霊と、この世に存在する生きている人間との関係であります。霊界の守護霊は、勝手にそのはたらきを行使するわけでなく、現存する人との精神的交流によって成り立っているのです。すなわち、誰彼とまったく意味なく交流されるのではなく、霊界とコンタクトを取ることのできる人が必要なのです。霊界の有様やそのはたらきを生きている我々に伝えることの出来る人、そう言うお役目を持った人が必要であるということです。その事については、後の項で述べます。
 
 D因縁とは
 
 さて、患者の病気などの原因を追求する為に、アメリカの精神医学では、催眠療法の一つである退行催眠療法(前世療法)によって解明できることを述べてきましたが、この方法に頼らなくても解明出来る方法があるのです。それが仏教的(宗教的)な解決方法であります。精神医学では、潜在意識に存在する過去の出来事を催眠療法によって蘇らせる(顕在化)のですが、仏教的な解決方法でも、潜在意識に存在する過去の出来事を蘇らせることには変わりがないのですが、その手段が催眠療法でなく、別の方法によるもので、それが霊能者による因縁浄化法であります。仏教では、潜在意識の事を阿頼耶識と呼ぶのですが、その阿頼耶識には、幾世にもわたる過去世の出来事が記憶として納められているのですが、それらは俗に「因縁」と呼ばれるもので、日本においては、昔から広く使われている言葉ですね。日常生活で「因縁」という言葉を使う時、あまり善くない事に使う場合が多く、先述の「業」と関連して出てきます。
 因縁とは、仏教用語で、「因と縁」のことで、ある結果が生じた場合、それは、原因の因と、それに加わる別の因のことで、それを縁と呼ぶのです。数式で、A+B=C、ということです。Aが因で、Bが縁で、Cが果(結果)ということで、至極当たり前の法則ですが、仏教では、因と縁の結びつきを非常に重く取らえているのです。すなわち、A=Cということでないのです。別に「因果の法則」とも言いますが、この場合、「縁」の言葉が省略されていますが、それを含んでの言葉なのです。
 一例をあげますと、ここに水(因)があります。水に熱(縁)を加えると水蒸気(果)に変化します。水+熱=水蒸気です。今度は、水(因)に冷却室(縁)に入れると氷(果)に変化します。水+冷却=氷です。このように原因は同じでも縁が異なると結果も違ってきます。ここで重要なのは縁の選び方です。結婚話で良縁、悪縁という言葉がありますが、この縁の善し悪しで結果も随分違ったものになってくるということです。
 この因果の法則を法華経方便品の「諸法の実相」の箇所で、もっと詳しく説明していますが、それを「十如是」と言い、十如是とは、如是相・如是性・如是体・如是力・如是作・如是因・如是縁・如是果・如是報・如是本末究竟等、の十種を言い、「如是」とは、「是くの如き」で、「ありのままの姿」といった意味で、その後の「相」とは、その物の姿・形で、「性」とは、性質・性分で、「体」とは、その物の本体で、「力」とは、その物が持っている力で、「作」とは、その物が持っているはたらきで、「因」とは、果となる第一原因、「縁」とは、果となる第二原因、「果」とは、因と縁によって生じた結果で、「報」とは、果が形と成って現れたもので、人間界では、いわゆる“むくい”の意味で、本末究竟等とは、以上述べた本(相)と末(報)とは、究極的に等しいということであります。この宇宙に存在するすべての物は、十種の展開によって、変化しながら、生滅を繰り返していることを「諸法の実相」と言うのであります。仏様の智力・眼力といったものは、このように我々凡人が考える因・縁・果の法則よりももっと詳しく森羅万象の姿を見極め尽くしていると言えます。
 
 E退行催眠療法と因縁浄化法の共通点
 
 さて、学問的に「因縁」とは、前述の如きでありますが、日常で「因縁話」と言った場合は、主に過去の悪い出来事が、そのまま解決(消滅)しないで、阿頼耶識の中に残っていて、それが後の世に災いとなって出てくる場合に使用することが多いわけです。それらをアメリカの精神医学では、退行催眠療法によって解決を計ろうとし、仏教では、「因縁の浄化法」として各種修行方法があるのです。
 現在、起こり来る種々の苦悩といったものの原因は過去世にあるという考え方は、退行催眠療法でも因縁浄化法でも同じであると言うことは、現代科学の時代において、大変な発見であると思いますが、森羅万象、すべての物は因果の法則で変化して止まないのであり、人間の苦悩にも必ず因果の法則が適用され、必然的に過去世にまで遡ってこそ、因果の法則が成立するのであります。
 大方の人々は、種々の苦悩や問題が生じた時、現世のみの原因を追求して解決を計ろうとしますが、それでは、どうしても合点がいかない場合が多く、完全な解決とはならず、最後は、「しかたがない」「それも運命だ」「それ以上は分からないことだ」という結果になってしまっています。今、改めて、退行催眠療法や因縁浄化法に思いを寄せて、真の解決法を見出だして欲しいと思います。
 
 F退行催眠療法と因縁浄化法の相違点
 
 さて、因縁の浄化とは、現代流で言えば心身を清浄にするということでしょうが、心身を整えたり清浄にしたりするには、ヨガとか気功のように各種瞑想をして心身を清めるなどの方法もありますが、因縁の浄化と言った場合には、心身というよりももっと深い部分での過去世(前世)の浄化を意味する場合が多いのです。現世(今世)の意識と過去幾世にもわたる意識との相違は、あたかも海に浮かぶ氷山の一角と同じようなものです。(図五)現世の意識は、海から出ているわずかな氷の部分で、過去幾世にわたる意識は、表面には見えない海中の大きな氷の部分なのです。氷山の一角のみをいくら清浄にしても、海中にある大きな氷の部分を浄化していかなければ、本当の浄化ではないと言うことがお解りになると思います。
 
 そこで過去の因縁(悪い出来事)を消滅(解決)させる方法としての退行催眠療法と因縁浄化法との違いはどこにあるでしょうか。そのへんのところを考えてみたいと思います。
 先に退行催眠療法は、催眠療法を施す過程で、偶然に発見された療法であることを述べましたが、患者本人の病状の原因を何とか特定できないものかと治療中に過去世まで遡ることができて、その時点で、過去世の存在、あるいは、あの世の存在が事実として認識されるようになって来たのであります。その病状の原因の特定が第一の目的であり、そして、最終的にその苦しみを取り除いて、苦しみから解放されれば、その目的は達成したことになります。
 しかしながら、因縁浄化法は、仏教の最終目的である仏の悟り(仏知見)を得る為の修行であり、仏に成る為(成仏)の修行であり(十界の項を参照)、その過程の修行方法であります。先の唯識学も、自己の心を見つめて(内観)、種々の煩悩のあることを知り、それを洗浄し清浄ならしめる為の分析法でありました。その煩悩の元を洗浄する方法として、因縁浄化法が開発されたと思うわけで、その副産物として、各自の悪業の結果である苦悩も解消できるのであります。あくまでも成仏することが主目的であって、それに附随して、苦しみも解消できるのであります。退行催眠療法は、過去世を探る入口の療法であり、まだまだ未知数の部分があり、この方法によって、本当に過去無量の悪業を見極めて、解消していけるものでしょうか。過去のトラウマを単に物を取り除くが如く、右から左へと移動させることができるものかどうか。ところが因縁浄化法は、先に述べたように仏教本来の人生の意義や目的を知り、更には永遠に続く魂の存在を教える事から始まっていると言えましょう。また、過去の無量の悪業を消滅させる場合にも、懺悔滅罪の法をもって、修行をしていくことが必須条件となるのです。もっとも退行催眠療法によって、単に病を治すのみならず、過去世の存在を知り、あの世の存在を知り、人生の生まれ変わりの意義を知るようになってきていることが、先の書名「生きがいの創造」飯田史彦著にも記載されていますので、それはそれで、とても善い事であると思います。
 アメリカの精神医学療法としての前世療法が、仏教の法華経の精神に近づきづつあることは、東西の精神文化の融合と言えるかも知れません。
 
 G守護神と霊能者
 
 そこで仏教での因縁の浄化法は、阿頼耶識(アラヤシキ)に蓄えられた過去の悪い意識を洗浄にしていくことであり、もっとも効果的な方法として、守護神と霊能者の助けが必要となります。守護霊の項でも述べましたが、霊界の状況を教えて下さり、また、その者の阿頼耶識に、どのような悪想念が潜んでいるかを判別し、指導して下さる守護神の存在が必要であり、十界の項でも述べましたが、この世とあの世を含めて、十種の境界があり、上の方の境界には、諸仏諸天善神等が存在する天上界や菩薩界、さらには、仏界があり、人間界を指導するもろもろの守護神がおられるのであります。
 テレビなどで霊能体験などの番組があり、霊能者が相手に対して、『今おじいさんの霊があなたの側に来ていますよ』などと言っていますが、これらは守護霊と言えるもので、守護神とは違います。守護霊は、子孫を見守っていて下さる方々で、ほとんどは、その家の先祖霊で、しかも功徳を積んだ霊魂と言えます。守護神となりますと、霊界においても神としてのおはたらきのできる霊魂で、その霊力も絶大で、現実界の人々とコンタクトを取ったり、霊の交流なども出来、一般的には、現実界で、しっかりと神として祭られている場合が多いのであります。日本に無数に存在する神社仏閣などは、すべて、神・仏として勧請し祭られているのがそれです。しかしながら、神として勧請し祭られていても、実際にその神とコンタクトを取ることのできる霊能者は、少ないと言えます。
 霊界の守護神と現実界の橋渡しをして下さる霊能者は、天性的に幼児の頃から霊感が勝れている方もあれば、後天的に、修行を積まれて、霊能を身に付けられた方もいます。どちらにしても霊能者は、霊的に勝れた方ですが、その霊能力を人々の為に正しく活用しなければとんでもないことになってしまいます。自分の欲の為に使用したならば、堕落した者となり、それこそ地獄界へ行く羽目になってしまいます。
 今日、日本においては、勝れた霊能者によって、霊界におられる守護神を招来(勧請)し、患者本人の過去世を明らかにして、それらを浄化する為に、最尊最上の法である法華経をもって救済されている方がおられますが、これら勝れた霊能者と高次元の守護神と末法救済の真実の法=法華経とが一体となった時、あらゆる苦悩が解消されていくのであります。もちろん、患者本人がそれらを信じ受け入れる素直な心持ちが必要であります。
 先に述べたように因縁浄化法は、勝れた霊能者、高次元の守護神の存在が必要でありますが、仏教の目的は、単に病い治しの為にあるのではなく、仏の智慧を得る為の修行でありますから、その本来の道筋に外れない事を前提として、因縁浄化法が行われる事を深く認識する必要があります。それに外れた場合は、高次元の守護神からの本当の守護も得られず、また、その効果も薄いものになってしまうでしょう。
 
 ◇今後の展開について
 
 ある意味で、因縁浄化法は、大変勝れた前世療法と言えましょう。現在、日本で行われている因縁浄化法は、それなりに存在しますが、それは、先に述べたように、あくまでも仏道修行の一端として、行われているのであって、厳しい一面もあることを了解していただきたいと思います。それらについては、今後あらためて、資料が調いましたら、お知らせしたいと思います。
                                              合掌
                                      記・平成21年3月11日
                                         ConanDoyle,Jr.
 
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(平成22年2月11日)(更新、令和4年1月5日)








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