◎唯識思想の意義
 
 唯識思想は五世紀ごろに、無著と世親によって大成せられたが、その萌芽ははるかに古くさかのぼるのである。仏教には、唯心論的な性格が古くからあったが、その唯心思想が理論化されて、唯識説となったのである。
 完成した唯識思想について言えば、唯識は、阿頼耶識の理論によって、認識における客観は、心の現わしだしたものであることを解明した思想である。しかし唯識仏教の目的は、我々の認識が唯識であることを証明するものではない。そうではなしに、仏教徒が「真実の認識は何か」を探求しているあいだに、副次的に認識は唯識であることが発見されたのである。その意味では、凡夫の認識界は何故迷妄であるのか、また如何にそれを転換すれば、真実の認識になるかを明らかにした「三性門の唯識」の方が、阿頼耶識の理論よりも重要であると言うことができる。
 それともう一つ、唯識について重要なことは、認識や経験は個人によってそれぞれ異なることを唯識が示している点である。我々は他人と、同じものを見たり、同じものを聞いたり、味わったりしていると思っているが、実際には、同じ外界に対していながらも、個人個人の受け止めている見聞覚知の世界は、同じでないのである。これを明らかにしているのが、「人々唯識」の理論である。個人がそれぞれ各自の唯識の世界を持っているのである。それであるから、各人の認識が異なっているのである。理解や、好みなども違ってくる。そのために各人の判断や行動が一致しないのである。
 それを、他人も自分と同じものを見、同じように理解していると速断するから、そこに誤解や意見の対立、ひいては争いごとがおこるのである唯識の教理は、各人の認識や理解がそれぞれ異なっていることを明らかにするから、他人の判断や行動が、自分と異なることを理解し、相手が自分と異なる考えを持つことを容認することができるそこに、真の個人の独立と尊厳とを尊重して生活する「和合の世界」が成立するのである
 それを、他人も自分と同じものを見聞し、同じ理解を持つべきだと考えると、無理に他人を自分の考えに従わせようとすることになってしまう。そこからは、お互いに相手の立場を尊重する生活態度は出てこない。その意味からも、唯識の理論によってこそ、真に人間尊重の世界観が確立しうる。現在の世界では、イデオロギーの対立や、宗教の争いが、ますます激しくなっているが、その意味からも、唯識の理論は今後の人間の世界観の基底となるべき資格をそなえた理論である。そしてまたそこに、唯識の教理が、和合僧を理想とする原始仏教の中心理念を受け継いでいることが示されているのである。
 
                  大法輪(東大名誉教授 平川 彰著)
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